Prologue

もう何度目だろう。
布団に入ってからもう随分と経つ。
僕は寝付けずにいた。
そばに転がっていたスマホの画面をタップする。
眩しく光るスクリーンでは、デジタル時計が深夜3時半だと僕に伝えていた。


目を閉じると、脳裏は暗い青緑色に塗りつぶされた。
よく目を凝らすと、浮遊物の霞の奥に大きな流線型の物体が、ゆったりと腰をくねらせて泳いでいるのが見える。
でっぷりとした腹部。
ピンと左右に突き出た、飛行機の翼のような胸鰭。
背中にポツンと白いトレードマーク。
身長ほどの大きさ、海の底に青黒く溶け込む隆々とした躯体は、潜水艦のような重厚感があった。

5m、10m…
僕は静かに、重力に任せて海底へと落ちていく。
そいつはまだまだ遠い。
「もっと近くで見たい!」ほんの数秒が永遠に感じた。
その時、なんだか身体の芯が、強烈にむず痒くなってきて…
寝返りを打つと、そいつの姿はもう消えていた。

後に残ったのは、生々しい海の感触だ。
鼻の奥にへばりつく潮の匂い、身体の芯が震える寒さ、四方八方からウェットスーツを叩きつけるバシャバシャという波の音。
フード越しに、風の音が聞こえる。
顔面にべっとりまとわりつく塩水がうっとおしい。
それらはずしりと身体全体に、重くけだるい疲労感となってのし掛かる。
その場から逃げ出したいほどの不安な気持ちに押し潰されそうになって胸が苦しくなり、思わず目を開けた。

大きく息を吐き出すと、もう何度目だろう。また、空が白み始めていた。


その巨大な魚が、『魚突きのターゲットである』と知ったのは、8年前、2015年のこと。
当時、東京海洋大の2年生だった僕は、サークルで出会った魚突きに夢中だった。
四六時中、それこそ彼女とのデート中でさえ魚突きのことで頭がいっぱい。
(ちなみにこの彼女には、魚突きに行きすぎて愛想をつかされることになる。傷心した僕は一人でインドの奥地へと向かい、大変な目にあうのだが…それはまたずっと後のお話。)

海洋学を専門に学び、研究し、空き時間にはひたすら悪友達と魚突き談義に明け暮れる。
次の休みはどこそこの海に行こうだとか、
サークルOBの誰々がとんでもない大物を突いた伝説がやばいだとか、
まだ見ぬどこかの海中世界への憧れだとか…
同じ話を何百回と飽きることなく語り明かした。
そして週末は離島に行き、魚を突き、皆でそれを囲み食べるのだ。
海にまみれた、充実した毎日。

しかし、大学に入るまでカナヅチで全く泳げなかった僕は、同期の中でもダントツに素潜りが下手くそだった。
海が怖いので潜水時間は短いし、当たり前だが深度も伸びない。
後から入ってきた後輩たちにも次々と抜かされていった。
まともに魚を突けない分、大物へのきらきらした憧れだけが人一倍あった。

ある日の授業中のこと。
僕は、とある老舗の魚突き道具屋さんのHPを見ていた。
見たことも使ったこともない様々な道具の数々、それらの加工の仕方…そこはキラキラと輝く宝の山だった。
隅から隅まで眺めていたら、歴代のお客さんたちから寄せられた獲物の写真が集められているページを見つけた。
スクロールすると、一枚の古写真に目が釘付けになった。
おそらくフィルムカメラで撮影されたのだろう、かなり年季を感じた。
その写真を見た瞬間の衝撃たるや。時が止まったのを覚えている。

なんだこれ

そこには、笑顔のオッさんと、一匹の巨大な魚が写っていた。
彼の背丈よりも随分と大きいその魚の、胴回りはまるでドラム缶のように太い。
その写真は、そんな巨大な魚を、一人の人間が海の中へと身一つで潜り、仕留めたのだということを伝えてきた。
陸上という”人間の世界から”糸を垂らして勝負するのではなく、海中という”魚達の世界”へと息一つで分け入り、その巨体と比してあまりに頼りなく感じられる細いシャフトを撃ち込み、格闘し、仕留めたというのだ。
そして、写真には一言、『イソマグロ 100kg!!』、こう添えてあった。

『あぁ、魚突きって、こういうことか。』
未だカナヅチで、おかずサイズのアカハタやカンパチすら満足に獲ることが出来なかった自分の中で、『魚突き』の概念が、音を立てて崩れ落ちた。

そしてまた、こうも思ったのだった。
『いつか自分も』

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