「大和ろぐ」にてWeb連載「一潜に賭ける」がスタートしました!

2023年10月25日、Web連載「一潜に賭ける」がスタート

ご縁あって、大和書房さんのWebメディアにて連載「一潜に賭ける」がスタートしました。


魚突きと文章は相性が良い。
僕が魚突きを始めた頃、魚突きブログが全盛期だった。
有名なものでは某関西のブログなど大学の講義そっちのけで仲間と夢中になって読んだ。

数ある魚突き文学(?)の中でも「モリで一突き」は別格だろう。
未開の絶海へとさまざまな手段を駆使して出向き、潜り、魚を突く。
巨大な魚を突いたり、サメがいたり…文章の向こう側には、まだ見ぬ「剥き出しの」海の世界が鮮やかに広がっていた。

当時の自分が潜って見ていた世界とはまるで違う世界。
そんな海もまた、世界のどこかに広がっているのだ。

当時掻き立てられた冒険心は、いまだに自分を掻き立てる原動力だ。

さて、前置きが長くなってしまったが、魚突きと文章の話に戻ろう。
僕がなぜ、魚突きと文章は相性がいいと書いたかというと、「潜水中に感じている1秒は実際の時間軸の1秒と異なる」からだ。これに尽きる。
例えば、岸から延々と泳ぎ、やっとの思いで離岸流をかわし、何度も空潜りを繰り返した末、ついにあなたはクエに出会ったとしよう。
ボトムでそいつを見つけた瞬間から、時が止まる。モリを向け、狙いを定めるという駆け引き。
実際に発見してからモリを放つまで、時間で言えばたったの数秒だろう。
しかし、自分の実感としてはどうだろうか?
少なくとも数十秒、下手したら数分に感じている人もいるかもしれない。

時間だけではなく、景色の鮮やかさも異なる。
クエがいた根の周りを取り巻く、スズメダイの群れの輝き。
ヒラマサが来た瞬間の、子メジナの群れのどよめき。
そうした全ては、「息を止めている」自分の脳内で、最も色鮮やかに記憶される。

動画でそれを伝えるのは少々難しい。
マスクの上に装着したカメラならばなおさらだ。
動画は、目の前の景色を「すべて」記録してしまうからだ。

文章には「読み手が想像で補う空白」が残されている。
情報量が少ないからこそ、時間軸も「自分が感じたまま」に歪めることができるし、
情報量が少ないからこそ、描写も「自分の印象に残っていること」に絞って表現ができる。

それは、究極の追体験の形ではないだろうか。

僕は「モリで一突き」を読んで、栗岩さんが孀婦岩で見た景色を見ることができた。

アクションカムの目覚ましい進化でYoutubeには魚突きのコンテンツが溢れている。
数々のSNSが誕生し、消えていった。その中で動画コンテンツの長さは日増しに短くなっている気がしている。
文章なら、動画のように場所がバレてポイントが潰れることもない。

何はともあれ、こんな形と想いで、文章を書くことに挑戦し始めた。

ご縁をいただいた皆さま、そしてなかなか筆が進まない素人の僕相手に助けてもらっている編集者さん、挑戦に付き合ってくれているチームの皆・スポンサーの皆さま、この場を借りてお礼申し上げます。

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